川西賢志郎『はじまりと おわりと はじまりと―まだ見ぬままになった弟子へ―』/責任を背負うということ

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お笑いコンビ“和牛”のツッコミとして時代を駆け抜けた男・川西賢志郎。
2024年の“和牛”解散後に初めて語る、漫才のこと、これからのこと。「M-1グランプリ」で準優勝するまでの道のり、人気絶頂で多忙な中でも年間500ステージをこなす芸との向き合い方、そして次に目指す笑いとは――。
発売即重版した、漫才師としての区切りを自らつけるためのエッセイ『はじまりと おわりと はじまりと ―まだ見ぬままになった弟子へ―』から一部抜粋してお届けします。
※本記事は書籍『はじまりと おわりと はじまりと ―まだ見ぬままになった弟子へ―』(川西賢志郎/KADOKAWA)から一部抜粋・編集しました
⑦責任を背負うということ
※書籍の収録順とは一部異なります
テレビ番組であれ漫才であれ、そのネタに対する“責任”というものは、持ち主側にあるべきだ。というより、持ち主側にあることが必然だと言える。“ネタを自由に扱ってもいい特権”を持つということは、持ち主側が“これでいい”という最終的な意思決定をした上でネタが提供されているということ。つまりは、すべての責任を持ち主が背負うという条件のもとに、テレビや漫才といった“ネタ”が存在しているわけだ。ただ最近、そのネタにおける責任の所在が不明瞭になっているように感じることがある。