※本記事は、雑誌『ダ・ヴィンチ』2025年12月号からの転載です。

止観、と呼ばれる行法がある。一つの事象に極限まで想念を集中させ、水や火、月、風に身をさらす命がけの修行を何年も行うことで、対象物と同化し、操ることすらできる境地まで達する。それが『蜻蛉の夏』に登場する“止観の道士”たちだ。
「止観……すなわち瞑想とは本来、心を落ち着かせるための修行ですが、極限まで精神を一点集中させるのは、一種の催眠状態に近い。かつて、深い催眠療法に陥った患者の手首に、焼けた針金だと言って平温の針金を押しつけると、火ぶくれができた実例があると、生理薬理心理学を学んでいた際に知りました。止観を極めた者であれば幻術を繰り出すこともできる事例と合わせ、本作のアイデアとしました。人は悲しいから泣くのではなく、泣くから自分が悲しいことを自覚するのだ、ということも同時期に学んだことで、人の心理を駆使した物語を描けるかもしれない、とも思いました。当時は、自分が本当に作家になるなんて考えもしていませんでしたけどね」
物語の舞台を1570年――織田信長が大軍を率いて上洛し、天下統一をめざして着実にその名をとどろかせ始めていた時代を選んだのは、信長が水観の使い手と実際に会っていたことを知ったから。
「それが、本作にも登場する果心居士(かしんこじ)。室町時代の末期に実在したといわれる幻術師です。信長だけでなく、豊臣秀吉や明智光秀にも水の幻術を見せたという記録が残っているのですが、彼についていろいろ資料を読みながら考えているうち、操るのは水に限らないのではないか、と思うようになりました。むしろ、山伏などの修験者が祈祷をする際に用いるのは火ですよね。ごうごうと燃え盛る炎を見つめるうち、無心になって、心も体も清められたような気持ちになるのは、一種の止観ともいえる。そこから炎観という設定が浮かんだんです」