
望まぬ形で我が子と引き離された母親は、身を切るような痛みを味わう。会いたいときに会えない。涙を拭いてあげることも、ハグをすることもできない。そんな自分を不甲斐なく思い、日に何度も惜別の念に駆られる。ほんの少し前まで、それは私の日常であった。
佐藤正午が綴る長編小説『熟柿』(KADOKAWA)に登場する市木かおりは、産後間もなく息子との別れを余儀なくされる。本書冒頭、かおりの姓は「田中」だった。「てっちゃん」と呼ぶほど仲睦まじい夫との暮らしは、ある事故を境に一変してしまう。親戚の晴子伯母さんの葬儀に参列した帰り、かおりは人身事故を起こす。事故自体は、不運としか言いようのないものだったが、かおりは事故現場から逃走し、被害者は死亡。深酒をして助手席で眠っていた夫は、警察官だった。裁判では不問にされたが、署内で共犯を疑われ、かおりの夫は警察官を辞職することに。事故を起こしたとき、かおりはすでに妊娠していた。
刑務所内で我が子を産み、授乳をしたのち、あっさりと引き離され、2年半の刑期を終えて出所したかおりに、夫は離婚を突きつけた。