※本記事は、雑誌『ダ・ヴィンチ』2026年6月号からの転載です。

『アンダスタンド・メイビー』以来、約15年ぶりの書きおろし作品となる本作の主人公は、5年近く新しい小説を書けずにいる小説家の岸田紗文。小説家を主人公に据えるのは、島本さんにとって珍しいことである。
「依頼を受けた当時、私自身が小説の書き方を見失っていたんです。物語ってどうやって書くの、小説ってそもそも何? と、確かなものを何もつかめなくなっていた。それはたぶん、過去の記憶に引っ張られていたからなんですよね。振り返れば、直木賞を受賞するまでの3年間ぐらいがいちばん公私共に充実していたような気がして。当時も、必死でもがいてはいたけれど、それを支えてくれる人達がいた。受賞直後に、信頼していた年上の友人を失ったのも大きかった。あの頃に戻れたら、と願う気持ちが芽生えた時点で私は“今”を生きられておらず、そうなると新しい小説の種も芽生えてこない。どんなに浸っていたい記憶でも、そこから出てゆかない限りは書くことができない。今を生きるしかないんだ、と考えていたところから生まれた作品なので、主人公は小説家にする以外、考えられなかったんです」
紗文を縛るのは、7つ年上の男性との記憶。人生でいちばん愛したその人に、愛されている自信がもてなくて、言ってはいけない一言を放った。以来、二度と会えなくなって5年。新しく誰かとつきあっても、前を向こうと振り切っても、紗文の生活には常にその人の影があった。