絵の中にいるはずの人物が、ある夜、目の前に現れる。身長はわずか六十センチ。古風な口調で話すその人物は、どこか愛嬌さえある。だが、彼が現れたときから、静かな日常は、少しずつ現実とは違う方向へズレ始める。
そんな物語が、『騎士団長殺し』(村上春樹/新潮社)。この作品は、村上春樹が描く“極上のホラー”と言っても過言ではない。派手に脅かされるわけではないのに、ページを開けば、日常が気づかぬうちに異界へ侵食されていく。「難しいのにスルスル読める」「よくわからないのに怖い」――そんな不思議な読書体験を味わえる一作だ。
派手に脅かさない。だからこそ怖い
妻から突然、別れを告げられた肖像画家の「私」は、一人暮らしを始めた山中の家で一枚の絵を見つける。その絵の名は、「騎士団長殺し」。その発見を境に、不可思議な出来事が次々と起こり始める。だが、見るからに恐ろしい怪物が登場するわけでも、派手な流血シーンがあるわけでもない。絵の中から現れる騎士団長も、むしろコミカル。なぜか「私」に向かって「諸君」と呼びかけ、「~ではあらない」と結ぶ独特な口調で話す。自らを「イデア」と名乗るその姿は、かわいらしくさえある。