村上春樹の小説を読んでいると、いつの間にか現実とは少し違う場所に立っていることがある。月が二つ浮かぶ東京、高い壁に囲まれた街、羊男が暮らすホテルの暗闇――。しかも厄介なのは、そこへ至る扉が特別な場所にあるとは限らないことだ。階段を下りる。ホテルの廊下を歩く。誰かを探す。そんな日常の延長から、世界はふいに姿を変える。村上春樹作品のなかでも、とりわけ“不思議な世界”に迷い込む感覚を堪能できる5作品を紹介する。
『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』
ひとつの小説のなかに、まったく異なる二つの世界が存在する。計算士である「私」が暗号処理を請け負う近未来的な東京を描いた「ハードボイルド・ワンダーランド」と、高い壁に囲まれ、人々が影を切り離して暮らす「世界の終り」。二つの物語は交互に語られ、最初は無関係に見えた世界が次第に奇妙な呼応を始める。地下には「やみくろ」と呼ばれる得体の知れない存在が棲み、壁の内側では一角獣が暮らしている。説明を聞けばファンタジーのようだが、読んでいると妙に静かで現実的なのが怖くもおもしろい。「二つの世界はどうつながるのか?」という大きな謎があるため、不思議な設定だけでなく物語を追う楽しさも抜群だ。